芸人であり、芥川賞作家でもあるピース又吉さんは、無類の読書家として知られています。

 

幼少期から芸人になるまでの体験談、芸人として活動する傍らで執筆活動をするようになった経緯、芥川賞を受賞した「花火」にまつわるエピソードなどを織り交ぜながら、ながらなぜ本を読むのか、文学の魅力とは何かを紐解いているのが本書です。

 

 

太宰治や芥川龍之介などの作品を引用し、自身の体験と照らしながら主人公のここの部分が共感した・・・救われたなど、又吉さんなりの解説で書かれてあるのですが、伝え方が上手なので思わず「へぇ」「なるほど」とその世界に引き込まれました。

 

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又吉さんが本を通じて伝えたかった文学の魅力とは、「多様性の許容」そして「説得力」だと自分なりに解釈しました。

 

自分がどういう人間かを考えた時、誰かひとりの意見だけで決めるのは不安です。Aのことを僕のことを「暗くて残酷だ」と言うし、Bは「意外と優しい」と言う。ひとりの人間を知ろうとしたら何十人もの意見が必要になります。その中にはそれぞれ矛盾することも出てきます。でもその矛盾を含めて、いろんな目線があって、ようやくその人がどういう人間かという全体像が浮かび上がってきます。

純文学を読んで感じるのはそういう誠実さです。

 

求められるキャラクターを演じながら、素の自分とのギャップに苦しんだそうですが、自分と同じような境遇や考えを持つ人間がいることを、文学によって教えられ、救われたと言います。

 

登場人物の人間臭い言動や描写に、ありのままでいていいんだと思わせてくれる説得力が純文学にはあるのだと又吉さんは説いています。

 

説得力を説明するのに、太宰治の小説を引用したこんな文章があります。

創作に於いて最も当然に努めなければならぬことは、〈正確を期すること〉であります。その他には、何もありません。風車が悪魔に見えた時には、ためらわず悪魔の描写をなすべきであります。また風車が、やはり風車以外のものに見えなかった時は、そのまま風車を描写するのがよい。風車が、実は、風車そのものに見えていたのだけれども、それを悪魔のように描写しなければ〈芸術的〉ではないかと思って、さまざま見え透いた工夫をして、ロマンティックを気取っている馬鹿な作家もありますが、あんなのは一生かかったって何一つ掴めない。小説に於いて、決して芸術的雰囲気をねらっては、いけません。(太宰治『芸術ぎらい』)

 

ふたつの選択肢で揺れている時、こういう言葉に出会うと迷っていた自分の背中を押してくれます。信じたままでいいんだと思わせてくれる。

でも、この言葉だけを抜き出された、こんなことはみんなが言っていることです。「自分の思ったように描きなさい」という言葉は、幼いころから何度も聞かされています。でも、その言葉だけでは僕は信じられません。言葉として弱い。

やはり、「風車が悪魔に見えた時」という言葉が必要なのだと思います。「風車が悪魔に見えた」とはすぐにイメージしにくい言葉です。理解はできるけど、普段の生活からはちょっと遠い言葉です。そんなことは普通はありえない。だからこそ、「風車が悪魔に見えた時」というのは何かを獲得した瞬間でもあるのです。そんな瞬間を経験したことのある人間にとってはかなりの説得力があります。

「純文学は回りくどいとか、なにを書いてるかわからないと言われることがあります。でも、そんな簡単な、簡潔な表現では納得できないときがあるんです。本の中から一行だけ抜き出されても無理です。そこには物語が必要です。たまにふと目にしたり耳にした言葉から啓示を受けることがありますが、それも言葉がすごいのではなくて、自分の人生という物語に、その言葉が奇跡的に乗ることができたからなんです。

 

 

短歌は省略の文化なので真逆なのですが、相通ずるものがあると感じました。例えば、同じ一句でも言葉の濃度によって重みが違ってくるからです。言葉の濃度とはつまり、その言葉の中にどれだけの情念が込められているかということ。そういった意味で、情念のある言葉は説得力があるという点は共通しています。

 

文学や短歌に限らず、芸術などでもそうですが、情念のあるものは「強い」です。今はまだ情けないほどペラッペラな自分だけど、誠実により濃い言葉を紡いでいきたいと強く感じました。なかなか難しいけど、これも鍛錬ですね。