最近、短歌の評価についてAIと対話する中で感じたことがあります。それは、人間とAIの「ものの見方」の違いです。
浴衣着て無邪気にはしゃぐ夏祭り花火に負けぬ君のきらめき
作者は不明ですが、こういった歌を目にすると、多くの人が「あるある」「青春ってこれだよね」と、共感や懐かしさを覚えるのではないでしょうか。短歌をはじめた頃って、こういう風にストレートな感情をそのまま詠む人が多い気がします。だからこそ、ある意味で「すごく代表的な歌」でもあると感じました。
一方でAIの反応は少し違っていて、言葉の平易さや、映像の浮かびやすさ、ストレートな感情表現の中にある「自然さ」「わかりやすさ」を評価しつつも、「飛躍性」や「詩的含み」という観点から見ると評価が分かれます。これって、人間の「刺さる」「沁みる」という感情ベースの評価と、AIの「構造的」「論理的」な評価の違いなんですよね。
AIの評価ロジックは2層構造
AIの評価は、あえて言えばカラオケの採点に似ています。一定のロジックに基づいて以下のような二段階で行われているように感じます。
第1レイヤー:整合性・自然さ
- 文法や語の使い方が自然かどうか
- 五七五七七のリズムに破綻がないか
- 意味の流れがスムーズか
第2レイヤー:独自性・飛躍性
- 想像力を刺激する飛躍や意外性があるか
- 言葉の選び方に新しさがあるか
- 読後感に余韻や詩情が残るか
この二層はときに相反します。整いすぎている歌は「既視感が強い」とされ、飛躍しすぎた歌は「意味がとりにくい」とされることも。結果として、まったく同じ短歌でも、Chatごとに評価が異なるのです。
一方、人間が短歌に触れたときに「わかる…」「刺さる…」と感じる瞬間は、ロジックではなく記憶や経験と結びついた空気や感情から生まれていることが多いように思います。
- 映像が浮かぶ
- 声の温度や間が感じられる
- 心のどこかにしまっていた記憶がよみがえる
こういった要素が「詩情」を生み、それは論理では測れないものです。感情がストレートに伝わる分、散文的とか詩情が足りないとか、そう評されることもあります。その測れなさが、短歌の面白さなのかもしれません。
こだわりすぎることで失うもの
短歌を詠み始めた頃に書けていた「ストレートな表現」が、詠み慣れるにつれて難しくなる──というのも一つの気づきです。テクニックや奥行きを意識するほど、「シンプルな感情の表現」が難しくなっていきます。技巧にこだわるあまり、この素直さが失われることも多い中で、真っ直ぐな心の動きを飾らずに詠めるのは強みです。
私自身、使う言葉自体はなるべく平坦にして、歌意が伝わることを大切にしているつものですが、「これ、安直に見えるかな…」「もっと比喩入れないと…」「直球すぎて恥ずかしい…」 といった気持ちが先行してしまって、素直な心情が言葉にしにくくなっているのではと感じています。この呪縛から逃れるのってなかなか難しいです。
AIの視点からのフィードバックは、客観的に見る目を養ってくれます。構造を意識すること、リズムや自然さを見直すこと。どれも表現を磨く上で無視できないことです。でも、最後に信じたいのは、やはり人間の「感じる力」です。それを信じて、これからも私は、言葉を選びながらも、言葉にしていきたいです。
それから市場的な意味でも、いわゆるソング(歌)と短歌って、すごく似ている気がします。ある程度のところにいくと、それなりの到達点に達して、技術的に上手い人というのはゴロゴロいて。世間に受け入れらるかのフィードバックの感覚というか、例えばTikTokでバズる曲と、プロの審査員が選ぶ楽曲も、「良さ」の定義が違っていたり。結局は、“受け”よりも、「なぜこの歌を詠むのか」というもっと本質的なところなのかもしれません。