名古屋のデパートで買い物をいた私は、ちょうどエスカレーターに乗ろうとしていたときだった。突然グラッときたかと思うと、左右にスライドするように大きく揺れ出した。立ち止まって揺れが収まるのを待つ。そのうち店のほうから、エスカレーターは使用せず、その場に待機するように指示が出される。けれど、それを無視して下っていく人も何人かいた。
揺れはまだ収まらず、やけに長く続いている。これまで経験した地震とは明らかに何かが違っている。このままここにいていいのだろうか。相変わらず、指示を無視して下っていく人がいる。そのときにとった行動によって生死を分けることがある。彼らの行動のほうが正しいのではないか。身を護るために、指示に従ってその場にいることが本当に正しいのか。だんだんとわからなくなってきた。
揺れはそのうち収まったけど、これまで経験した地震とは明らかに何かが違っていた。けど、あれほど甚大な被害をもたらした地震だとは思いもよらなかった。
「ただいま。地震、凄かったね。ちょうど買い物してたらさぁ・・・」
飛び込んできたのは、どす黒い濁流が次々と家や車を飲み込んでいく衝撃的な映像だった。飛行機がビルに突っ込んでいく、同時多発テロの映像をみたときもそうだった。こんな映画みたいなことが起こるわけがない。脳のどこかでそう拒否しているのだろうか。理屈ではわかっているけど、どこかCGのような気もして現実の光景だと飲み込むのにタイムラグができる。
「何、これ」
これが正直な感想だった。大変なことが起こったと認識するのは、それから少し経ってからだった。直接的な被害が遭ったわけじゃないけど、あれから私の中にも拭いきれない黒い染みが心にできた。あの映像を見た人は、同じように何かしら心に影を宿しただろう。そういうことが起きた。
日常生活を送っていく中、あれからも日本各地で災害が続いている。染みはその度に濃くなり、でも日々を過ごす中でだんだんと薄くなりながら、こういう節目になるとまた濃くなる。被災者でない私は、その繰り返しの中で生きている。
当事者には当事者にしかわからない想いがある。だから私は、喪失感にのまれそうになりそうなとき、指針となるような言葉を届けられるようになりたい。