「輪になってみんな仲良くせよ」と言いながら、前提条件として「円周率は約3」という歪んだルールを押し付けている。その不穏さには、表向きの平等を語るものの、実際には画一化を強いる現実が感じられます。本来の「平等」は、個々の違いを認めた上で、公正な機会や条件を整えることのはずですが、「平等」と言いながら画一化を強いて、都合のいい形に世界を丸め込んでいる。こういう図式は、学校や職場、社会のあちこちにあるように思います。

 

典型的なのは、徒競走で「みんなで手をつないでゴールしましょう」みたいなルール。一見、公平で優しさに満ちたこのルールも、速く走れる子も遅い子も同じ速度で走ることを強いられ、本来の個々の違いや努力がかき消されてしまう結果を生み出してしまいます。円周率を「約3」とするのも同じようなもので、本来の数学的真理を曲げてまで「調和」を強いることで、かえって歪んだ世界観が作られてしまうそんな気がします。

 

多様性や個性を尊重する動きが広がっている今、実際にはこのよに画一化が進んでいる部分もあります。ファッションや髪型の自由度は上がってきているけれど、SNSでの「いいね!」を気にして他者の目を意識するというプレッシャーが強くなったことで、本当の意味での多様性を尊重することが難しくなる場面も見受けられます。

 

特に言論の自由に関しては、より一層そうした画一化の圧力が強まっていると感じます。SNSやネット上では、意見を発信することが以前より簡単になった反面、社会的に支持されている意見に対して反対するのが怖くなったり、自分の意見が少数派だと感じるときに言いづらくなったりすることも。例えば、ある意見が「正しい」とされる風潮があり、その同調圧力が強くなると、異なる意見や視点を認めることが難しくなったりしています。

 

平等がディストピア化の一歩ならゴミのようだと丸まる背中 朝倉冴希

 

私が詠んだ短歌「平等がディストピア化の一歩ならゴミのようだと丸まる背中」にも、こうした画一化への違和感を表現しています。この短歌の「丸まる背中」には、無理に平等にされることで自分の本来の形を失い、縮こまってしまう感覚が込められています。

 

みんな一律に同じように扱うことよりも、適材適所や環境や背景によるハンデへの配慮だったり。それぞれの個性を尊重し、違いを活かしながら、本当の「輪になってみんな仲良く」を実現できる社会になるといいなと思います。

 

今日はπ (円周率)の日。