一葉自身が明言していないため断定はできませんが、「この花」とは「くちなしの花」を念頭に置いて詠んだ可能性は極めて高いと考えられます。真っ白な花弁と、甘くて強い芳香が特徴で、梅雨から初夏にかけての今の時期に花を咲かせます。くちなしの実は、熟れても割れない(口を開かない)ことから、「くちなし」と名付けられたといわれており、沢庵や栗きんとんの色付けなどに用いられたりします。
誰もかくあらまほしけれこの花のいはぬに人のなほもめづらん 樋口一葉
誰もがこうありたいと思うのだろう。この花のように、何も言わなくてもなお人に愛でられるような存在に。
おもふ事いはねば知らじ口なしの花のいろよきもとのこころも 同上
思っていることを言わなければ知られることはない。何も言わない花がどんなに美しくとも、その本当の心まではわからないのだから。
いずれも“言葉にしないこと”に焦点を当てていいます。何も言わなくても愛でてもらえるのが理想としながら、一方で何も言わなければ知ってもらえないと詠んでいるのがとても興味深いです。くちなしは、声を持たない花。黙して語らず、ただそこに咲いて香りを放つ「沈黙の美」と、伝えなければわかり合えないという「沈黙の限界」もそこに見えてきます。
明治という時代は、女性が公の場で声を上げること自体が難しく、知性や感性があっても、語ることには社会的な壁があったそんな時代です。女性としての生きづらさや、明治という時代における社会的な立場の複雑さも反映しているように思えます。
若くして家の柱となり、文筆で生計を立てることを決意した一葉は、貧困、家父長制、職業的差別などに晒されながら、個人の現実と社会構造の矛盾に向き合い、「おもふ事 いはねば知らじ」と書くことに人生をかけてきた人です。だからこそ、「語らぬ花」のもどかしさに深く共鳴し、一方で、「語らなければ伝わらない」という現実の厳しさを、誰よりも切実に感じていたのかもしれません。
語りたいのに語れない一葉の時代と比べれば、ずっと自由に語れるようになったはずの現代。けれど今度は、語ることに対して別のプレッシャーがのしかかってきているようにも感じます。語れるけれど語りづらい時代。語ることがただの自由行為ではなく、何かしらの“葛藤”を伴う点では、もしかしたら地続きの場所にいるのかもしれません。
それにしても、お金に苦しめられた樋口一葉が、最終的に「お金そのもの」として日本中を流通する存在になるなんて。この運命のいたずらについて、一葉は何を思い、何を語るのか。知りたい気もします。