「リトルガールズ」という小説で、で第34回太宰治賞を受賞した歌人・錦見映理子さんのエッセイ。「NHK短歌」に連載されていた「えりこ日記」が書籍化されたものです。

 

錦見さんと親交のあるそれぞれ歌人との交流の様子や作品にまつわるエピソード、歌人・穂村弘氏との対談などが掲載されています。

 

エピソードを交えながらそれぞれの歌人の持ち味やどういった感性の持ち主なのかがさりげなく解説されていて、だからこそその歌人ならではの素晴らしい歌を詠むことができるということが心にストンと入ってきます。そこにいち早く気づける観察眼を羨ましくも思いました。

 

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印象に残ったのは、歌人・山川藍さんとのエピソード。

 

そこには、白黒の猫が天使の羽のようなものを背に付けて飛んでいる絵が描かれていた。絵の下には「さくら 享年15」とあった。

 

火葬場へ向かう猫入りダンボール「糸こんにゃく」とあり声に出してみる 山川藍
われわれは家族であった円陣を組み死んでいる猫にさわった 同

 

段ボールに書かれた「糸こんにゃく」と死んだ猫との無関係さ。「声に出す」というかなしみとは遠いような行動のちぐはぐさ。そして、死んでしまった小さな「家族」を、残された人間たちが「さわっ」ているというかなしみの渦中を描くときの「円陣を組み」という客観的な描写の強さ。

いきなり漠然と「絵を描いて」と言った私に、山川さんは迷いなく亡くなったさくらの姿を描いたこと、これらの歌の生々しさはつながっていると思う。初対面の人に対して、一般的なかわいい猫のイラストを適当に描いて渡すような「社交」ではなく、自分の家族として死んだ唯一無二の猫の絵をまず手渡すことを選択するところに、山川さんのうたの力の根拠がある。そこには、自分には大事な猫が他人にとっては大事ではない、という真実を一瞬でひっくり返してしまうような、息つまるほどの真剣さがある。

 

過去に「こまち」という名前の犬を飼っていたのですが、そのこまちが亡くなったときのことが脳裏に浮かんできました。

 

深夜に家族全員がこまちを囲んでいて、亡くなった後は代わる代わるそっと毛並みを撫でていたのは、こまちの死を少しずつ受け入れようとする儀式でした。山川さんもきっとそうだったんでしょうね。

 

主体である自分をないがしろにして、自分らしく生きることや自分らしさを表現ができるとは思えません。「息つまるほどの真剣さ」というのは、そういうことへの真剣さなのだと思います。

 

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あと、錦見さんが短歌をはじめたキッカケとなったエピソードが綴られていたのですが、これがすごく心に刺さったんです。

 

知人の送別会に参加した錦見さんは、Tさんという写真家の男性と出会います。2人はすっかり意気投合し、尽きないお喋りに花を咲かせるのですが、その日以来毎晩つけていた日記が書けなくなってしまったのだそうです。

 

当時私には大好きな恋人がいて、彼と間もなく結婚するつもりだった。彼以外の人間を好きになるはずはなかったのだ。Tさんの名前も、出会ったことも、彼をどう思ったかも、どうしても日記に書けなかった。書いてしまうと、曖昧にしておきたいことが決定的になってしまう気がして、こわかった。でも、出会った痕跡は書き留めておきたい。自分にだけわかる形で、何かに記したい。

それで私は日記に、「詩のようなもの」を書こうとした。すると手がするすると動いて、一行詩らしきものをいくつか書いた。

もしかしてこれは短歌というものではないだろうか。

人生には、どうしても散文では書けないことが起きることがある。韻文でしか書けないことが、この世にはあるんだ。それを私は、Tさんとの出会いと、自分の手の動きによって知ったのだ。

 

もうひとり我がいたならもうひとり愛してみたいひといるゆうべ 錦見映理子

 

自分にだけわかる形で、何かに記したい・・・この感覚すっごくわかります。同じように、痕跡だけはとどめておきたいと表立って書けないことを韻文に託したことが何度もあるから。あ~わかるなぁって。

 

それができるのが詩歌の良さですよね。

 

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優れた作品を生み出す歌人にはそれなりの理由があるのは当然ですが、それをおしつけがましくなく自然に受け入れられる形でさりげなく解説されていてとても読みやすい一冊でした。