東京に引き続き、愛知・名古屋でもヨメイヨシノの開花宣言。やっぱりソメイヨシノが咲きだすと、いよいよ桜の季節がやってきたという気がします。

 

 

今回の「今日の短歌」は、馬場あき子さんの一首。

 

馬場さん
毎年、毎年、桜を詠む。毎年、毎年、百合を詠む。庭に咲いてればね。そうすれば、その百合の花そのものの詠みかたによって自分の人生の変化とかなんかが出てくるわけで、それもなかなか面白いですね。昔の人は、春になると必ず桜を詠んだでしょ?50年間桜を詠んだら、桜の歌だけ見てもその人の人生の想いの変化というものが出てくるわけですね。 
【Eテレ】 こころの時代~宗教・人生~「歌詠みとして今を生きる」より

 

 

ゆっくりとゆっくりといく春かけて老いゆかんとするさくら花と、水流の音ひびくがごとく老いゆかんとするわが身。年齢を重ねば重ねるほど、桜の季節が巡るたび思います。あと何回、この桜の季節を迎えることができるのかなって。たぶんそれは、私だけではないですよね。

 

馬場さん自身によるこちらの記事によると、自刃された歌人・村上一郎氏への挽歌として「無名鬼」の追悼号に掲載されたようです。

 

 

これは「春の水深」と題した二十九首の冒頭におかれた歌で昭和五十年六月の「短歌」に発表した。作ったのは四月でこの頃、かなり桜に執して歌を作っている。理由があった。ほんの少し前、三月二十九日の昼のことだ。読売新聞におられた島田修二さんからの電話で、村上一郎さんが自刃されたというので、その頃親しかった冨士田元彦さんに連絡して吉祥寺の村上家へ急いだ。

(中略)

私の桜の歌については「身に水流の音ひびくなり」が一般的によく伝わらず、「川の辺りにあっての歌」「水流のようにひびく心音」「身を流れる水流のような血潮の音」などと解釈された。私としては「川の辺り」以外の二つであればどちらでもありがたい。一連の後半は村上一郎への挽歌として「無名鬼」の追悼号に出した記憶がある。

 

 

桜が咲けばやっぱり嬉しくて、できるかぎり堪能しようとあちこち花めぐりしたりして・・・。徐々に散っていくのを見るとちょっぴり切なくなって・・・。でも、すぐに新緑の季節がやってくると何事もなかったように日々は過ぎて、春が近づくとまた桜が咲くのを待ちわびて・・・。

 

そうやって月日を重ねていきながら、年老いていくんだなぁって・・・しみじみ。いつまでもそうやって桜とともに老いゆかんことが幸せなのかもしれないですね。

 

そのためにも、今のうちになるべく足腰を鍛えておかないとなぁ。花めぐりするようになって気づかされたんだけど、山道を歩いたりとか花を愛でるのもなかなか体力を使うんですよね。もちろん場所にもよるんだけど。

 

今年はどこに花めぐりに行こうかな。

 

 

 

夜半(よは)さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん 馬場あき子

こちらも、馬場さんが桜を詠まれたものですごく好きな一首。なんといっても日本語の美しさが最大限に生かされた見事な調べ。馬場さんの短歌はどれを読んでも、その流麗さに惚れ惚れさせられます。