岡崎市・伊賀八幡宮にて。
葉の影にひっそりと鎮座していたり、葉からすくっとぬきいでて立ちひらいていたり。それぞれに個性はあれど、どの花も葉に隠れている泥水のことなんて微塵も感じさせないほどの優雅さ。むしろ、泥水が汚ければ汚いほど美しい花を咲かせるその気高さにあこがれるけど、不用意に泥水を浴びせられれば傷つきもするし、泥に埋もれれば身動きが取れなくなるというもの。それが“正義”という名であっても。
まともな見解や意見のつもりで発信しても、それが多勢となることで追い詰めていたとすれば、泥の一端を担ってしまっているのかもしれなくて。ネットで自分の意見を発信するということは、つまりはそういうことなのだと。
矛盾するようだけど、寄ってたかって批判されることの精神的ダメージが計り知れないからこそ、それが身勝手な振る舞いの抑止力となり、見えないとこで救われていたりもするじゃないかとも思ったりもします。だからこそ正論をぶつけたくもなるのだけど、それだからこそ言葉はより慎重に。肝に銘じておかなければと思います。