丸谷才一氏の「思考のレッスン」を読んでいたら、後鳥羽院が隠岐で詠まれた「我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」という御歌の話が出てきました。丸谷氏は「後鳥羽院」という本の著者でもあるのですが、「後鳥羽院御百首(遠島百首)』」を「続群書類従」という叢書で読まれたのだそうです。承久の乱で隠岐へ島流しとなった後鳥羽院ですが、そのきっかけとなった尼将軍・北条政子の演説はあまりにも有名ですね。

 

「続群書類従」に掲載された中には注釈らしきものがまじっており、「我こそは新じま守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」にあったそれは、それまで習ってきた“波よもっと穏やかに吹いてくれ”という哀願する弱々しい流人の後鳥羽院像とはだいぶ違っていたというのです。

 

われこそはという云ふ肝要なり。家隆卿隠岐国へ参り、十日ばかりありて帰らんとし給ふに、海風吹き帰りがたければ、我こそは新じまありてあれども、など科なき家隆を波風心して都へかへされぬとあそばしける。さらば我に風しづまりて家隆卿京へかえられしとなり。

 

↑これが引用されていた注釈なのですが、要するに「心して吹け」と海に向かって命令しており、言いつけどおりにしないと承知しないぞと脅迫しているというわけです。哀願というよりはずいぶんと勇ましいですよね。不思議に思った丸谷氏は、国文学者(当時は国学院の国文の教授)の佐藤謙三氏に、これはどういうわけかと電話越しにその部分を読み上げたのだそうです。佐藤氏によれば、文体からして室町時代の連歌師によってつけられた注釈なのだとか。

 

「思考のレッスン」では、そういった経緯もあって読み物の文体に注視するようになったと結んであったのですが、少し調べてみたところ、前者の哀願していると解釈をされるようになったのは、鏡物と呼ばれる四つの歴史書のひとつである「増鏡(ますかがみ)」によるところが影響が大きいようです。作者は二条良基が最有力視されていますが確証はなく、こちらの文体は「源氏物語」の影響を強く受けたものになっています。

 

同じ世にまたすみの江の月や見ん今日こそよそにおきの島守 後鳥羽院
同じ世にまた住之江の月を見ることがあるだろうか。 今は他所である隠岐の島守として眺めているけども。