明らかに“創作”だとわかりきったものならともかく、「主体」の設定がフィクションであると知った場合、読者を戸惑らせてしまうケースが詩歌にはあります。

 

例えばですけど、エッセイと謳われている本に書かれていることがフィクションでしたとなったらどう思うでしょうか。「このエッセイに書かれていることは、私自身の体験談や考えではありません」となったらおそろく大多数の方が困惑してしまうと思います。なぜならエッセイは、物語と違って“創作”ではなく、内面を吐露するという意味合いが濃いから。それがフィクションというのであれば、それはエッセイではなく小説と呼ぶべきものですしね。

 

そういう内面を吐露する要素の強い詩歌も同じように捉えがちで、そこに隔たりがあると違和感を感じてしまいがち。このことについて、歌人の穂村弘×枡野浩一という対極的な両氏が語っている対談記事を見つけ、とても興味深かったのでシェアします。

 

枡野 それでさっきの話にもどすと、お父さんがほんとは生きてるのに、お父さんが亡くなったという短歌の連作を書いて、『父親のような雨に打たれて』でしたっけ、それで短歌賞を取ってしまった人がいて(枡野注/短歌研究新人賞受賞作「父親のような雨に打たれて」は石井僚一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』収録)。実際にはお父さん、元気だったと。でも、その賞の選考委員の人たちはお父さんは死んだと思っていたと。この件は(穂村さんは)どう思ってらっしゃるんですか?
穂村 さっきの『ハッピーアイランド』と同様に、その時の選考委員も僕はやってたんだけど……
枡野 はい。
穂村 虚構の許容度って文体とセットで決まってくると思うんだけど、震災とか人の死とか、現実の事象が重ければ重いほど、ハードルが上がってくるって気がしてる。
枡野 はい。
穂村 実際に亡くなったのはお祖父さんだったんだっけ?
枡野 う~ん。
穂村 でもそれもね、本当はそんなこととは(短歌の良し悪しとは)関係がないって、僕の最初の主張からしたら言わなきゃだめなんだけど。
枡野 はい。
穂村 逆に、いない兄を歌うとか、いない妹を歌うとかのレベルもあるよね。
枡野 寺山修司とかですね。
穂村 うん、平井弘とかね。いない兄と言いつつ、その兄が戦争で死んだとかいうことになっていたら、じゃあNGなのかっていうと、それは、自分がぎりぎり疎開世代で、その何歳か上の人たちがみんな出陣して死んだ場合、兄たちなるものたちを代表させて兄と呼ぶことは有りだと思うわけ。
枡野 ああ……
穂村 妹というのも「年下の親愛なる者」という意味があるからね。その意味で架空の妹を歌うということは、年下の女性への思いを妹に託してもOKだという感じはあるわけね。
枡野 はい……
穂村 同じ人の死を歌っても、そういう文脈とは違う場合、ちょっときついかなと思ったりするわけ。そのことはいつも考えていて、本当は「なんでもありだ」って言いたいんだけど……。『死んでしまう系のぼくらに』って詩集があるよね?
枡野 最果タヒさん。
穂村 最果タヒさんね。あれも「最果タヒ」という名前だけからは性別も年齢もわからないわけで。『死んでしまう系のぼくらに』っていうタイトルがね、例えばそれが55歳の男性の作品だったら、きついと思っちゃうと思うわけ。
枡野 はいはいはいはい。
穂村 で、30歳の男性でもベストとは云えない。
枡野 なるほど。
穂村 できれば、若い女性がいいなと。「ぼくら」だからこそ。
枡野 『やすらぎの郷』の老人たちの『死んでしまう系のぼくらに』とかイヤですもんね。
穂村 それは……逆にありだよね。あとは、<老人は死んでください国のため>っていう有名な川柳の作者が、25歳なのか80歳なのかでは全然……句の意味が……
枡野 変わってきちゃう。
穂村 でも、それでは住んでいる場所や、性別や、年齢や、そういうもので書いたテキストの価値が変わるのを認めるのかということになるのね、僕的には、それは「変わらない」という主張なんだよ。現実の、地上の重力に囚われないんだ、言語は……と。しかし実際には「価値が変わる」ということを、そんな風に何度も僕は認めさせられてきたから。

 

私なりに考えてみたんですけど、文脈の前後で主体の設定をある程度読み取らせることのできるのなら、それは作品として“アリ”なんじゃないかなと思う派です。一首だけだと字数の問題があって難しくても、連作としてならそういう設定ということにして“創作”することは可能だし、それはいいんじゃないかなと。

 

あるいは勧善懲悪な「半沢直樹」的なキャラクターを立てて、表立っては言えない世の不条理をバッサバッサ斬っていくとかさ。伝え方はいろいろあっていいんだと思います。確かに作者のバックグラウンドによって作品の価値は変わるかもしれないけど、作品の中で設定が確立されているのであればドラマや小説と同じでその中で成立させるべきものだというのが私の考えです。

 

ただ穂村氏の言うように「現実の事象が重ければ重いほど、ハードルが上がってくる」というのはその通りだなって。作中で別人格を演じたとしても全然いいと思うけど、実体験のほうが圧倒的に有利だという意味でそのあたりのサジ加減は難しいですね。

 

 

作者の人となりやエピソードを知ることで一首の深みや味わいが全く変わってくるというのは確かにあるから、それを知ろうとすることはとても大切なこと。作品の設定で作者の人物像をはかろうとするより、なぜこれを書いたのかという視点で捉えたほうがいいのかもしれないなと思ったりしました。

 

基本的に本人の好きなようにすればいいと思うし、「こうしたらもっと良くなるんじゃない?」と意見するのはいいとしても、そのやり方は邪道だとか間違っているとかケチつけるのは個人的にあんまり好きじゃないかな。