滋賀県・西教寺より

 

恩師である高麗の僧・慧慈和尚のために、聖徳太子が建立したとも伝えられている西教寺。明智光秀ゆかりの寺でもあり、光秀の供養塔やおしどり夫婦としても有名な妻の煕子、明智一族の墓などもあります。

 

月さびよ 明智が妻の咄せん 松尾芭蕉

 

 

 

推古天皇30年 (旧暦622年2月22日  グレゴリオ暦4月8日)に聖徳太子は亡くなり、高句麗の地でそのことを知った慧慈和尚は大変に悲しまれたそうです。そして、翌年の同じ日には自分も・・・という宣言通り、翌年の命日に亡くなられたといいます。2021年は聖徳太子400年御遠忌、2022年は慧慈和尚1400御遠忌にあたり、神峰山般若寺によって慧慈和尚像が修復されました。

 

家ならば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ 聖徳太子
家にいたなら最愛の妻の腕の中にいただろうに、旅先で草を枕にして臥せておられるこの旅人よ。なんともおいたわしい。

聖徳太子が竹原井(現在の大阪府柏原市高井田)の龍田山で詠んだとされ、万葉集に収録されている和歌。

 

しな照る  片岡山にいひやせるその旅人たびとあはれ
親なしになれりけめや  刺竹さすたけの君はやなき
飯に飢て臥やせるその旅人あはれ

片岡山で飯に飢えせて臥せておられるその旅人よ、なんともおいたわしい。
親なしにあなたは生まれたのであろうか。主君はいないのだろうか。
飯に飢えて臥せておられるその旅人よ、なんともおいたわしいことよ

片岡山伝説として日本書紀に収録されている和歌。

 

 

聖徳太子といえば、生まれてすぐ喋ることができたとか、何人も会話を聞き分けることができたなど超人的なエピソードの持ち主。その中のひとつに、推古天皇に献上された馬の中に、黒駒という馬が神馬であることを見抜き、その神馬にまたがり空を駆けたというのがあります。

 

宿場や交通手段が発達していなかった当時は、旅をするというのは想像よりもずっと大変なことだったと思いますが、神馬に乗った聖徳太子に至っては富士を越えて信濃国へ、そして再び都まで戻るのにたったの3日だったと伝えられています。

 

技術が発達した現在では高速道路や電車も飛行機もあり、さらには民間でさえも宇宙旅行へも行けちゃうのだから凄い時代です。