むらさきと白と菖蒲は池に居ぬこころ解けたるまじらひもせで 与謝野晶子
むらさきに白、菖蒲は池にいながら、心を解いて交わるわけでもなく。

 

「こころ解けたるまじらひもせで」は、人と人との間にある“ほどよい距離感”や“近づききれない関係性”を連想させます。人間関係の距離感ってなかなか難しいですよね。ちょっと踏み込むと義務感みたいなものが生まれてしまうこともあって。定期的に会おうとかなるとそれが縛りになってきたり。上手く言えないけど、そうなるのがしんどくなるから、やめておこうってなることもあります。

 

「この人いいな」と思う気持ちは本物なのに、「続けなきゃ」「応えなきゃ」っていう義務のかたちに変わると、だんだん息苦しくなっていくし、その逆もしかり。「これ、重くならないかな?」とか「相手にとってはどうなんだろう?」って自分の気持ちにブレーキをかけちゃうんですよね。例えば、連絡先を交換するのもただの一歩なのに、その一歩に“これからどう関わっていくか”っていう見えない未来まで背負いそうになったりして。気軽なはずのやりとりが、慎重にもなるし、臆病になることもあります。

 

深入りも距離も、タイミングも、無理に決めなくていい。「また会えたら、話せたら嬉しいな」くらいの軽やかさでつながって、会えたときは心地良さのまま笑い合えるのが、一番の理想なんですけどね。かといって、「また会えたらいいね」という余白は美しいけど、そのままだといつのまにかふわっと消えてしまうこともあるから難しいですね。誰かがちょっとだけ手を伸ばさないと、繋がれないまま、「またね」が過去形になってしまうこともあるから。

 

だからこそ「こころ解けたるまじらひもせで」の余白を保ちながら、さりげなく「元気?」って声をかけるとか、何かのきっかけでふっと思い出したときに「思い出したよ」って伝えるとか。ほんの少しのアクションが、無理のない繋がりを続けさせてくれるのかもしません。なんていうか、そんな積み重ねが密度の濃さにつながっていくのかなと思ったりして。

 

凛としながらすくっと立つ花菖蒲。互いに引き立て合いながら調和していて、本来あるべきつながりはこういうことかもしれないと、そっと教えられた気がしました。