花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがにはありける 西行
(美しさゆえに) 花見に人が押し寄せてくるのが、桜の罪なところである

 

「花見にと群れつつ人の来る」ことは、ゆったりと桜を楽しめないという他にも、ソーシャルディスタンスを保つうえでは好ましくないことに違いありません。桜に咎はないものの、コロナ過以来は特に、西行に深く共感するところではないでしょうか。

 

とはいえ、桜が咲けば、やはり愛でたくなるもの。桜咲く所、どうしても人が集まってしまいがちですね。シートを敷いて・・・というわけにはなかなかいきませんが、マスク等対策をしながら、それぞれ桜を楽しんでいるようです。

 

そんなわけで私も、桜並木の下をゆるりと歩いてきました。

 

 

やはり癒されますね。

 

 

 

京都、西行の庵室。春になると、美しい桜が咲き、多くの人々が花見に訪れる。しかし今年、西行は思うところがあって、花見を禁止した。 一人で桜を愛でていると、例年通り多くの人々がやってきた。桜を愛でていた西行は、遥々やってきた人を追い返す訳にもいかず、招き入れた。西行は、「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という歌を詠み、夜すがら桜を眺めようと、木陰に休らう。 その夢に老桜の精が現れ、「桜の咎とはなんだ」と聞く。「桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない。」と言い、「煩わしいと思うのも人の心だ」と西行を諭す。老桜の精は、桜の名所を西行に教え、舞を舞う。そうこうしているうちに、西行の夢が覚め、老桜の精もきえ、ただ老木の桜がひっそりと息づいているのだった。

「西行桜 Wikipediaより」

 

能の「西行桜」にも登場する和歌ですが、桜といえばの西行。23歳で出家とした西行は、生涯にわたって2000首あまり和歌を詠んでいますが、そのうち230首ほど桜を詠んでいます。