この時期は、街のあちこちが躑躅で彩られます。庭先や街路樹としてそこらじゅうで咲いているので、それこそ路上がパッと華やぐ光景です。毎年恒例の当たり前な光景だけど、見るといいなぁと思っていて、この短歌に惹かれたのもそこにあります。

 

躑躅のそばを通ったとき、そんな気持ちに背中を押されるようにそっと手を伸ばしてみた躑躅。乾いてカサカサしているわけでもなく、でも瑞々しすぎるわけでもなく、やはり「しめり」と呼ぶにふさわしい手触りを確かに感じました。

 

「とある路上」という表現は、詩や短歌でよくある「叙情的な情景描写」とは少し距離のある言い回しに感じます。だからこそ、そうすることで焦点が「場所」じゃなくて、手触りと感覚そのものにギュッと絞られているようにも思います。場所を特定せずにぼかすことで、「自分の知っているあの路上」や「あの日の、あの植え込み」といった、 自分自身の記憶や感覚に引き寄せることができたり、「しめりに触れつ」という超具体的な行為のコントラストが際立ちます。

 

そんなことを考えながらふと思ったのが、幼い頃のあいまいな記憶と関係があったりするのかもしれないということ。どこの路上だったかわからないけど、躑躅に触れた記憶があった・・・その手触りだけは覚えているみたいな。幼いころの記憶って、風景とか場所とか、細かいことはどんどんぼやけていくのに、手触りとか、匂いとか、温度だけがぽつんと残るものだから、そんな「確かなかけら」が映し出されているのかもしれないと思ったのです。

 

思い返してみれば、子供のころはよく躑躅の蜜を吸って遊んだものです。あのときに感じた手触りやほんのりと甘い味は、今でもちゃんと記憶に残っています。