観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ) 栗木京子
「我には一生」にある背景は何なのか。観覧車の他には何も見えてきません。「観覧車」の一言で「一生分の想い」と釣り合うほどのリアルな熱量が伝わるか、すべてはここにかかっていると思うんです。
たとえば、入手困難な“推し”のチケットが奇跡的に当たって、もうこんなチャンスは二度とないかもしれない、というような場面。それぐらいじゃないと、「あー、確かにそれは一生分だよねー」と、説得力を持たせられないんじゃない?という気もするし、初デート、初めて手が触れた、キスをした・・・語られていないからこその余白の強味も感じられます。読み手は、何があったのかを想像するしかなく、その人なりの「一生分」を勝手に妄想するわけです。
つまり、受け手の想像力や体験、文脈次第でこの比喩は重くも軽くもなり、温度感が伝わらなければ一生は大げさなんじゃない?って思われてしまう、そんな紙一重の比喩の上に成り立っている一首。
俵万智さんの「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」という短歌は、実際には「この味がいいね」と言われたのは“から揚げ”だったそうです。それでも短歌の中では“サラダ”に置き換えられました。“サラダ”のほうが記念日という軽やかな響きにふさわしく、詩情が生まれるからだと思われます。
仮に俵さんが「観覧車」を詠むとしたら、その一瞬の出来事が「一生分の想い」と釣り合うように、リアルな熱量と共に記憶されるシチュエーション――例えば、初めて手をつないだ、言えなかった気持ちがやっと届いた……そんな情景を、さりげなく込めるんじゃないかなと、そんな気がします。あくまでも憶測で、そんな気がするだけですが。
そこで私が詠むとするならどうするだろうと考え、できあがったのはこの短歌です。
始まりはあの観覧車 君はただ日常にいて私は堕ちた