清川妙さんの著書です。本書は清川妙さんが90歳のときに出版されました。教職員を経て、2014年に93歳で亡くなられるまで精力的に執筆活動されていました。
兼好さんとは、そう。あの徒然草でおなじみの兼好法師のことです。
「見ぬ世の友」の兼好さん
ひとり燈火のもとに文を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわぞなる 第十三段
たったひとり、灯火の下に書物をひろげて、自分が見たこともない、遠い昔の人を心の友とすることは、このうえなく楽しくて、心が慰められることだよ--。
著者の清川妙さんにとって、「見ぬ世の友」は兼好さん。人生の岐路に立った時徒然草にある兼好さんの言葉に幾度となく支えられたそうです。息子さんの耳に障害があると知ったときも、その息子さんとご主人が相次いで亡くなってしまったときも・・・。
「見ぬ世の友」兼好さんは、ときに厳しくときに慰み、生きるための指針となって寄り添ってくれているのだと・・・。たとえばこんな風に。
日々に過行くさま、かねて思ひつるには似ず。一年の中もかくのごとし。一生の間も、また、しかりなり。 第百八十九段
ものごとは予想通りにはいかないものだよ。毎日、いろいろと予期せぬ出来事がおこるけれど、一年のうちにもそうであるし、人の一生という長い物差しで考えてみてもまた、あり得ないと思うようなことだっておこるのだ。
死後についでを待たず。死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり。人みな死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし。 第百五十五段
死ぬ時期は、年齢にかまわず、順序を待たないでやってくる。死は前のほうから来るとは限らない。人がちっとも気づかないうちに、背後に音もなく迫ってきているのだ。人はみな、死というものがあるのことは知っている。だが、その死というものは、まさかやってくるとは思ってもいないときに、突然やってくる。それは、はるか沖のほうまで干潟となっているときには、潮が満ちるとも見えないのに、突然に磯のほうから潮が満ちてくるのとおなじようなのだ。
兼好さんの心に刺さる名言
徒然草といえば、序章の「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて・・・」から始まって、その中にあるいくつかの項目は学校で習った記憶があります。例えばこれ。もちろん本書にも紹介されています。長いので、清川妙さんのによる現代語訳だけ紹介しますね。
木登り名人と世間が読んでいた男が、人を指図して、高い気に登らせて、木の枝先を切らせていたときのこと。たいへん危険に見えていた間は黙って見ていたのに、降りるときに軒の高さぐらいになってはじめて、「しくじるなよ。気を付けて降りよ」と声をかけたので、「これくらいの高さになってしまえば、飛び降りたって降りられよう。どうして、わざわざそんなことを言うのか」と尋ねたところ、木登り名人はこう答えた。「それはこういうわけでございますよ。高いところで、目がくらくらとして、枝が折れそうで危ないうちは、本人自身が恐れて用心していますので、こちらからは何も申しません。失敗というのは、もう大丈夫と安心する段になって、必ずしでかすものでございます」
徒然草にはこのようなエピソードがふんだんに盛り込まれているのですが、清川妙さんの自身の経験を織り交ぜた絶妙な解説によって、一層引き立ちより興味深いものとなっています。
敬愛と親しみが込められた、清川妙さんの手にによって浮かび上がる兼好さんこと兼好法師の人物像は思慮深くありながら、とても人間味があってすっかり兼好さんファンになってしまいました。何より、兼好さんの感性には共感する部分がたくさんありました。
兼好さんの言葉は、どれもこれも心に刺さりいろいろとご紹介したいのですが、キリがありませんので、そのうちのいくつかをピックアップしていきたいと思います。
いまだ堅固かたほなるより、上手の中に混じり手、毀りわはるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、みだりにせずして年を送れば、堪の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なきを得ることなり。
まだまだまったく未熟なうちから、ベテランの中に交じって、悪口を言われようが、バカにされようが、平気な顔でやり過ごして、懸命に練習に励む人、そんな人は生まれつきの勘のよさはなくても、途中で迷ったり勝手気ままなことをしたりしないで、一途に習いつづけるならば、生まれつき天分がありながら芸にうちこまない者より、かならず勝るのだ。そして、最後には、名人と呼ばれる境地になり、人格もおのずと備わり、世間からも認められて、天下無双という大評判までも得るものだ。
このことは、カリスマブロガーのやきぺーさんもよく言われていることですね。下手でもいいからとにかく発信することだと。
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのここそよけれ。 第七五段。
「ひとぼっちは退屈でたまらない。つらいなぁ」などと言う人は、いったい、どんな気持ちなんだろう。ほかのことに気が散ることもなく、たったひとりでいることこそすばらしいことなのに。
いづくにもあれ、しばし旅だちたるこそ、目さむる心地すれ。 第一五段
場所はどこでもいい。しばらくの間、日常を離れて旅に出ているのは、目の覚めるような、清新な気分を得られるものだ。
厳しさもあるけど、うんうん確かにそうだと思わず頷いてしまいます。
ちなみに、「旅」というのはただ離れた土地に移動するのことだけをいうのではなく本を読んだり、映画を観たり・・・心を動かし出かけていく。これらのことは、大きく言えば、みんな<日常のなかの旅>なのだと書かれています。「旅」にまつわる清川妙さんの素敵なエピソードも紹介されています。
深く響いたのはこのくだり。
よろづの道の人、たとひ不堪なりといえども、堪能の非家の人にならぶ時、必ずまさることは、たゆみなく慎みて軽々しくせぬ、ひとへに自由なるとの、等しからぬなり。 第一八七段
これについて、こんな解説をされています。
<道の人>とは専門家(プロフェッショナル)、<非家の人>とは素人(アマチュア)である。プロとアマの違いについて、兼好さんは言う。どんな道のプロでも、たとえその技が不器用であっても、器用なアマとくらべるとかならずプロが勝つ。プロはけっして油断せず、いつもこまかく注意をはらい、いい加減なことをしないから。アマは、プロのような責任がなく自由なぶん、気を抜いて、自分の好き勝手におこなう。その違いが勝負をきめるのだ--と。
特にね、清川妙さんのこの言葉が刺さったのですよ。
私も、<道の人>を目指す者のひとりとして、文章について、感じていることがある。ひとつひとつの言葉をとことん吟味し、ここにはこの言葉しかない、というほどのギリギリの選択をして、原稿用紙に心を刻みつけるように書かれた文章は、たとえば極上の焚きかたをされたごはんのように、粒が立って光って見える。イージーに書き流されたり、打ち流された文章は、活字がみんな寝ているように、私には見える。
短歌って、「ひとつひとつの言葉をとことん吟味し、ここにはこの言葉しかない、というほどのギリギリの選択をする」・・・そのものですからね。だから、言葉選びにはとことんこだわります。
でも正直に言えば、こうしてblogを書いているときとか、自分の伝えたいことが適切な言語として出てこないことがあるんです。それこそもっとふさわしい言葉や言い回しがあるはずなんですけどね。
で、そこを妥協して適当に書いてしまった文章はものすっごく薄っぺらくて“寝ている”んですよね。自分でもよくわかるんです。心当たりがありすぎてグサッときましたね。
清川妙さんのような、自分の心と丁寧に向き合っていくそんな生き様に憧れます。時間がかかってもいいから、丁寧に言葉を紡いでいこうと思います。
***
“旅”は、“兼好さん”のような人生の道しるべとなってくれる”友”に出会うためのものでもあります。兼好さんは、私にとっても“友”だし、清川妙さんもその1人です。