何気なくネットサーフィンをしていたら、元号の日ということもあって「令和」にまつわる面白い記事を見つけました。

 

 

万葉集にある、大伴旅人宅に山上憶良ら筑紫歌壇の面々が集った梅見の宴での和やかな様子を記した序文。メディアでもさかんに報道されていたように、新元号はそれを抜粋した初春しよしゆんれいげつにして、かぜやはらぎ」から「令和」となりました。

 

 「初春正月の良い月で気は良く、風は穏やかだ。梅は白く咲き、蘭は匂い袋のように芳しい(中略)。互いにヒザを近づけて酒を酌み交わし、言葉も忘れるほど楽しくなごやかだ。この愉快な気持ちは、文筆がなければどうして述べることができるだろう。庭の梅を題材にして、歌を作りなさい」

 

この文面だけを見ていると、都から離れた大宰府で、華やかなサロン文化が育まれていたと、想像してしまう。しかし、実態はむしろ逆だった。むずかしい立場にあったのは、歌壇の主役大伴旅人とその一族だ。

大伴氏は天皇家の祖神が南部九州に舞い下りて以来、王家に付き従ってきたが、王家も大伴氏を高く評価していた。

大伴氏の悲劇は、主だった古代豪族が藤原氏に潰されていく中、最後に残った名門豪族だったことだ。そんな中、大伴旅人が頼りにしたのは、天武天皇の孫の長屋王だった。ただし、長屋王は神亀元(724)年に政権トップの左大臣に躍り出たため、藤原氏に邪魔にされたのだ。

 

 

和やかな宴の裏で、大伴旅人たちはこのような事情を抱えていたという事実。藤原氏によって追い詰められた長屋王は自害してしまうのですが(長屋王の変)  、筑紫歌壇を構成した人物のひとり「小野老」が、実は藤原氏に通じていたのではないかという見方が有力のようです。

 

ちなみに天武天皇の孫の長屋王ですが、父親はあの高市皇子です。 関連記事:【万葉集特集】穂積皇子と但馬皇女

 

 

 

 

私が「へぇ、なるほど」と思ったのは、次の文章。

 

おそらく彼は藤原氏に脅され手先となり、大宰府を監視するために送り込まれたのだろう。良心の呵責に苛まれた小野老は、「私に気を許すな」と伝えるために、寧楽礼讃の歌を、皆の前で披露したのではなかったか。当然、大伴旅人は震え上がり、「でくの坊」「酒浸り」を装ったのだろう。そうこうしている間に、長屋王一家は、滅亡に追い込まれてしまった。

 

 

藤原氏寄りの小野老と、それを快く思わない大伴旅人や山上憶良らという構図からして、あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなりが単純に都を称賛しているのではないというのは想像するところではあるんだけど。

 

筑紫歌壇に注意を促すためのものであり、大伴旅人がいわゆる「うつけ者」を装った・・・というのは・・・そうかぁ、考えられなくはないかぁ。藤原氏の繁栄をほのめかしてほくそ笑んでいるのとでは、人物像がずいぶんと変わってきますね。