ゆくへなく月にこころのすみすみて果はいかにかならむとすらむ 西行
行く先が定まらないまま月を眺めれば、月光に心の内を隅々まで照らされていくようだ。このまま自分はどうなるのだろうか。
西行法師はもともと北面の武士として朝廷に仕えていましたが、出家してからは家族や社会的地位を捨て、吉野や熊野、奥州など各地を巡り、いわゆる漂泊の生活をしていました。心の平安や悟りを求めて流浪し、世俗を離れて生きていた西行法師。そんな彼が「ゆくへなく月にこころのすみすみて」と、心の深いところまで見透かされてような心情になるほど、目に映った月は神秘的な美しさだったと思われます。
月の清らかな光の中で「果はいかにかならむとすらむ」と、自分の行く末や運命を思い巡らせている西行法師は、どのような心持ちで月を眺めていたのでしょうか。月光に影響を受けて心が澄んでゆく、いわば彼の瞑想状態や心の平安を示しているのでしょうか。それとも、未来や運命に対する不安や無常観を月に反映していたのでしょうか。どちらの要素も含まれていると考えられます。
美しい月に心が浄化される一方で、未来や運命に対する不安や無常観が月の光に映し出される。西行法師が感じていたそのような複雑な感情は、時代や環境が違う今の私にも共感できるものです。そしてきっと、今夜の私もそのような心持ちで月を眺めるのだと思います。
今宵は中秋の名月。月の光がもたらす静けさとともに、自らの心の奥深くに思いを馳せるひとときになりそうです。