瀬をはやみ岩にせかかる瀧川のわれても末に逢はむとぞ思ふ  崇徳院
川の瀬の急流が、岩にせき止められて二手に別れながら再びひとつになるように、再びあなたとお逢いしたいと思います。

 

二手に別れた流れがまたひとつになるように、離れたとしても再びまたどこかで出会って・・・。川の瀬というより、窓にはりついた雨の流れを見ながらそんなことを思ったりします。もちろん、百人一首にもあるこの和歌を思い浮かべるからです。また「瀬をはやみ・・・」といえば、「崇徳院」という落語のモチーフにもなっており、そちらを思い浮かべる方もいるかもしれません。

 

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崇徳院は、鳥羽天皇の第一皇子。先代の白河上皇によって鳥羽上皇は天皇の座を退位させられ、わずか5歳のときに天皇の座についたのが崇徳院(崇徳天皇)でした。このことで崇徳天皇を疎ましくなった鳥羽上皇は、崇徳天皇にとって異母弟である近衛天皇に譲位させてしまいます。つまり、自分がされたのと同じ仕打ちを、崇徳天皇にしたわけです。

 

病弱であった近衛天皇は17歳の時に亡くなり、崇徳上皇は息子である重仁親王を天皇につかせようとするものの、またもや鳥羽上皇によって弟の後白河天皇にその座を奪われてしまいました。ここでついに後白河天皇との権力争いが勃発。(保元の乱) 保元の乱に敗れた崇徳上皇は、仁和寺で謹慎した後に、現在の香川県坂出市に流されてしまいました。崇徳院が仁和寺にいたとき、いち早く駆けつけたのが、親交のあった西行でした。

 

仏教に心酔するようになった崇徳院は、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)を写経し、死者の供養と反省の証としてこれを京の寺に収めて欲しいと願い出たところ、呪いがかけられているのではと後白河院に突き返されてしまいます。これに激怒した崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、のちに朝廷の使者が訪れた際にはヒゲや爪が伸び放題で恐ろしい姿になっていたと言い伝えられています。

 

啼けば聞く聞けば都の恋しさにこの里過ぎよ山ほととぎす 崇徳院
啼けばいやでもその声を聞くことになり、聞けば都が恋しくなってしまう。どうかこの里を早く過ぎておくれ、ほととぎすよ。

浜ちどり跡は都に通へども身は松山に音(ね)をのみぞ啼く 崇徳院
浜ちどりの足跡のような文字は都へ向かうけど、我が身は遠い松山にあり泣くばかりである。

 

のちに後白河院の身の周りに次々と不吉なことが起きるようになると、崇徳院にはすっかり怨霊のイメージがつくようになり、菅原道真、平将門と並ぶ日本三大怨霊と呼ばれるようになりました。

 

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そんな崇徳院の死を悼み、凄まじい怒りで怨霊となった崇徳院の霊を慰めたのが西行。そのやりとりは、江戸時代の小説・上田秋成の「雨月物語」によって描写されています。

 

崇徳院と親交のあった西行が、崇徳院の崩御を嘆き、友人の寂然法師に送った和歌

ことの葉のなさけたえぬるをりふしに ありあふ身こそかなしかりけれ 西行
和歌の情趣が絶えようとするそんな節に遭ってしまったわが身が悲しく思います。

しきしまや絶ぬる道になくなくも君とのみこそ跡をしのばめ 寂然法師
絶えようとするその道の跡を、泣く泣く君と偲ぶことにしましょう。

 

崇徳院の御陵に詣でた西行が詠んだ和歌

松山の波に流れて来し舟のやがて空しくなりにけるかな
松山の波に流されて来た舟はやがて朽ち果ててしまった(そのように崇徳院は崩御されてしまったのだなぁ)

松山の波の景色は変わらじをかたなく君はなりましにけり
松山の波の景色は変わっていないのに、あなた(崇徳院)は跡形もなくなってしまわれた。

よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん
かってあなたが玉座についていたとして、(亡くなってしまっては)それが何になりましょか。

 

「われても末に逢はむとぞ思ふ」これを恋歌とする説や、再び実権を握り返り咲くことを詠んだものだとする説などいろいろありますが、もし恋歌とするならば「逢はむとぞ思ふ」と詠ったその愛しい人とは逢うことができたのでしょうか。気になるところです。

 

二手に別れた流れがまたひとつになるように、離れたとしても再びまたどこかで出会って・・・。誰を想って「逢はむとぞ思ふ」と詠んだのかはわかりませんが、危険を承知で仁和寺まで駆け付けてくれて、死して怨霊となってからも対面を果たしている西行とは、まさにそんな間柄だったといえるでしょうね。