銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも 山上憶良
銀も金も宝石もいかほどのものか。どんな優れた宝であろうが、子という宝には及ばない。

 

「子どもは宝」という言葉はすごく正しいし、確かな真心があるんだけど、どこかまっすぐにはうなずけない、どこかモヤモヤとした複雑な思いが湧いてしまいます。

 

というのも、実際の社会では、子どもを育てることは「自己責任」とされがちだったり、電車でベビーカーを使うのを遠慮してしまったり、保育園の送り迎え一つにも他人の目を気にしなきゃいけなかったり。私は子供を育てた経験はありませんが、そうした現実がSNSなどで度々語られているのを目にします。

 

憶良の歌に込められた「子どもは宝」には、目の前の子を心から慈しむまなざしがあり、そこを疑っているわけではないんです。けれど「子どもは宝」という言葉が、どこか空々しく響いてしまうのです。それはきっと、社会の側がその“宝”を扱う覚悟も仕組みも整えないまま、言葉だけが先に立っているから。

 

「子どもは宝」は、時代を越えて響く真理のようにも感じられるけれど、現代の私たちにとっては「そう思うなら、それを支える社会にしてよ」という、願いというか、叫びにもつながってしまいます。

 

子どもを育てる人が孤立せずに、周囲から自然と手が差し伸べられる社会であったなら。この歌はただの理想論ではなく、ちゃんと現実の中で血の通った言葉として響くはずだと思うんです。作者に対しての違和感ではなく、歌が投げかけている“まっすぐな愛”が、現代社会とのギャップを強く照らしてしまうから、モヤモヤと引っかかってしまうんですよね。

 

かといって、核家族化の解消を同居で解決しようにも、義家族との摩擦やプライバシーの問題が生じるなど、家族形態の変化だけでは埋まらないズレもあります。例えば、シニア世代やボランティアとつながる多世代交流といった、家族の形」に縛られない、ゆるやかな支え合いのネットワークがもっともっと必要なのだと思います。

 

銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも   

今の社会にこそ必要なまなざしがここにあると思えてなりません。少子化が進み、育児や教育に不安を感じる人が増える中で、「子はまさに宝である」と当たり前のように言える社会。そして、それを支えられる社会であってほしいです。誰もが「かけがえのない存在」として大切にされる感覚。そんな優しさの連鎖が広がっていけば、きっと今より少しだけ生きやすい社会になるのではないでしょうか。