伊勢物語38段に登場する業平と紀有常の和歌。業平が、友人である有常の家を訪ねたときの場面です。

 

むかし、紀有常がり行きたるに、ありきて遅く来けるに、よみてやりける。
むかし、(業平が) 紀有常を訪ねたところ、(紀有常は留守にしており)遅くに帰って来たので歌を詠んでやった。

 

君により思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ 在原業平
あなたによって思い知ることができました。世の中の人のいうこれが恋というものなのでしょう。

ならはねば世の人ごとに何をかも恋とはいふと問ひし我しも 紀有常
経験の乏しさ故に、世間の人は何をもって恋というのかと問いかけているぐらいの私なのに。

 

つまり、友人に待たされた業平が「遅いよ」というのを「これが恋なのか」と皮肉交じりのジョークを飛ばし、それを受けて有常は「経験豊富でモテるお前がそれを言うかねぇ」という意味を込めて「経験がないものだから人に聞いてまわってるぐらいの私に恋を教わったとはね」と答えている・・・。

 

このような解釈をしている場合がほとんどなのですが、私なりに調べてみたところ、それとは少し違った視点で解説されたHPがあったのでご紹介します。

『古典を読む』伊勢物語 38段:恋といふ あらすじ・原文・現代語訳」

 

 

君により思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ 在原業平
君よりも思い通りにならない世の中よ。人はこれを恋というのだろうか。

 

「君により思ひならひぬ」とは、16段の「有常」のエピソードを元に揶揄したものであり、そのエピソードというのは有常の妻が尼になると出ていってしまったというもの。そのことを踏まえて、後から家に着いた有常のことを、後家とかけて皮肉ったというか揶揄したということらしいのです。羽振りが良かった若かりし頃と違って、出世コースから外された有常の懐具合は厳しく、出家する妻のために何もしてやれないと業平に泣きついたといいます。

 

ならはねば世の人ごとに何をかも恋とはいふと問ひし我しも 紀有常
ならば世の中の人のことは何もかも恋ということなのか、私も問いたいところだ。

 

人それぞれだとは思うのですが、私としてはこちらの解説のほうが、すんなりと腑に落ちたというかしっくりきたんですよね。いずれにせよ、業平がちゃっかり有常の娘を妻にしているというのもね。ある意味、盛大なオチがついていると言っていいのかもしれません。

 

ちなみに、能「井筒」は、業平と有常の娘の恋物語がペースになっています。