立春を迎えて、七十二候では東風解凍(はるかぜこおりをとく)。 暦のうえでは「春」ですが、冬将軍はむしろここからが本領発揮とばかりに、猛威を振るいそうです。明日あたりから最強寒波が迫っていて、また一段と冷え込みが厳しくなりそうな予感。雪があまり降らないこの地方も、一時的にですが雪がちらつきました。とはいえ、春の足取りも確実に感じられて、蕗の薹がひっそりと顔を出したりしています。鶯の鳴き声はまだ先かな。

 

さて、掲出歌の「こほれる」をどう訳すのが適切なのかなと思ったのですが、主に二つの解釈が浮かびます。ひとつは「凍れる」とし、冬の寒さで鶯の涙が凍りつき、それが春の訪れとともに解け出すというもの。もうひとつは「零れる(こぼれる)」と読み、鶯が涙をそっとこぼすそんな情景を思い描くもの。

 

この短歌では、雪に覆われた冬の中に、いつの間にか静かに春が静かに訪れていたという、ほのかな感嘆や驚きを表現しています。もし「凍れる」と解釈すると、涙がいま解け出すという、劇的な変化の印象が強くなってしまいます。しかし、「いまや解けつつあるのだろうか」と思いを馳せるのなら、必ずしも急激な変化を前提とするわけではなく、矛盾は生じにくいかもしれません。七十二候の東風解凍 (はるかぜこおりをとく)と重ねているという見方もあり、東風が氷を溶かすように、凍っていた鶯の涙も今は解けつつあるのではないかとも読み取れます。

 

ただ、「零れる」と「解ける」ではニュアンスが異なります。「解ける」は、物理的な変化を経た結果ですが、「こぼれる」は感情の動きが直接的に表れたもの。もし、春の気配に心が動かされたことを強調するのであれぱ、「こぼれる」方がしっくりきます。「雪のうちに春はきにけり」の感慨を大切にするならば、「零れる」という解釈が、よりこの歌の趣を引き立てるように思います。

 

いろいろ踏まえて考えてみた結果、個人的には「涙が解ける」と読むことで、心がほどけるような変化がより詩的に感じられるのではないかと思います。