名古屋で行われた「人体の不思議展」を見に行ったときの衝撃は忘れられません。本物の人体がプラストミックという特殊技術で標本となっていて、皮が剥がれた筋肉や内臓、浮き彫りになった神経や血管、輪切りにされた断面、お腹が大きくなった妊婦の断面なんかがずらり。確かにこうなっているのかと勉強にはなり、人体の構造を知りたければ、これ以上のものはないのかもしれません。

 

病院で検査を受けて説明を受けるまでの間や、体に痛みや病気などの異変が生じたときなど、ほんのりとベースに思い浮かべるのはあの時の人体模型。それは何となくの映像でしかないのだけど、脳裏に浮かべた何となくの映像を基に、自分や大切な誰かの身体がどうなっているのかを思い巡らせます。いきなりというわけではなく、ありがちな図柄や模型のイメージからなのですが、実際どうなの?と知りたければ知りたいと思うほど、「人体の不思議展」で見たあの人体標本へと近づいていきます。

 

19世紀頃のイギリスでは、ジョン・ハンターのように死体を盗むことを生業とする、解剖学者に雇われた死体盗掘人がたくさんいたようです。イギリスだけではなくもちろん日本でも「腑分け」と呼ばれる人体の解剖は行われており、人体の仕組みというのは長い年月をかけていろんな人の手によって紐解かれてきた歴史があります。賛否はありますが、人体への探求心を極めた最たるものが「人体の不思議展」であり、人体というものがあらゆる角度から隈なく展示されているのを見て、そのエネルギーの凄まじさをまざまざと見せつけられた気がしたんです。だからこそ印象深くて、からだじゅう隅から隅まで知りたくなるとよぎるのですが、そのときにセットのようにして浮かんでくるのが掲出歌。

 

「血管の中に住みたい」に似たエネルギーを感じるからだし、そのときの自分の心境とシンクロしているというのもあります。からだじゅう隅から隅まで知るというのは、場合によっては覚悟が必要だったりショックを受けたりもするけど、それでもパンドラの箱を開けるがごとく知りたくなってしまうというのは深く共感するところです。