「実りの秋」と称される季節ですが、本日は七十二候の第42候「禾乃登(こくものすなわちみのる)」にあたり、穀物が実る時期を迎えています。この季節に関連して、長塚節の歌「小夜深にさきて散るとふ稗草のひそやかにして秋さりぬらむ」の「秋さりぬらむ」について考察してみたいと思います。
「秋さりぬらむ」というフレーズの解釈には、古文の文法的な構成を考慮すると複数の可能性があります。古文における「さる」は「去る」という意味も持ちますが、同時に「然る」という意味もあり、文脈によって解釈が大きく変わります。
まず、「去る」としての解釈では、「秋さりぬらむ」は「秋が過ぎ去ってしまったのだろう」という意味になります。この場合、稗草が咲いて散る様子とともに、秋の終わりの静けさや儚さが強調され、季節の移ろいを感じさせる詩的な情景が浮かびます。秋が静かに去っていく様子が、歌全体の雰囲気や自然の描写と調和しています。
一方で、「然る」としての解釈では、「秋さりぬらむ」は「秋が来たのだろう」という意味も考えられます。この解釈では、季節の変わり目としての秋の到来を静かに受け入れ、その成熟を感じる様子が表現されています。穀物の実る時期と結びつけると、秋の始まりを感じ取る視点も一理あります。
このように、「秋さりぬらむ」の解釈には、文脈と季節の象徴が大きく関わっており、詩全体の雰囲気や自然の描写によって、どちらの意味にも受け取れるわけです。私自身は、控えめに咲いて散る稗草の様子からして、秋が静かに気づかないうちに過ぎ去っていく無常さを感じ、「秋が去ったのだろう」という解釈がより自然に感じられる気がしています。
皆様のご意見や解釈はいかがでしょうか?お聞かせいただければ幸いです。