茗荷ふたつに切り分けたときの形がね、横に広がっている自分の耳と重なるんですよ。・・・というわけで、立ち耳の持ち主としては見逃せない一首。おかげで、茗荷を切るときには決まってこの短歌が脳裏に浮かびます。そして、秘かにフフッ(笑)となるのです。

 

 

「茗荷ふたつに切り分けた」の比喩がどこに掛かってくるのか。「静けさ」なのか「耳ふたつ」なのか。パッと一読しただけだとわかりづらくて、そこが解釈しづらい部分じゃないかなと思います。個人的な見解としては両方なのだろうなと感じました。

 

「茗荷ふたつに切り分けたような静けさ」の中で、「茗荷ふたつに切り分けたような耳ふたつ」を澄まして何を聴いているのでしょうか。内面からあぶり出た声なき声にじっと耳を傾けているのだろうと思うけど、それがどんなものなのかは触れていません。

 

ただそれを形にしていくことが表現するということであり、作品を通してその一部を垣間見ることはできます。

 

私も短歌を詠むときは、そのようにして声なき声にじっと耳を傾けます。そして、形にするのが難しければ難しいほど、その分だけ心の中に静けさが必要です。それがわかってくると、クリエイティブなものに出会ったときは、できるだけその声を聴くつもりで耳を澄ましたいと思うようになりました。