思へどもなほ飽かざりし桜だに忘るばかりの深見草かな 後水尾院
思ってもなお飽きることはない桜さえ忘れるほどの深見草である。
「富貴草」「花王」「百花王」「二十日草」「花神」「天香国色」などの異名を持つ牡丹。深見草もそのひとつ。牡丹の花が咲き始めるころという意味の「牡丹華(ぼたんはなさく)」の今日ですが、今年はどの花も咲き始めが早いですね。写真の牡丹もちょうど二週間ほど前のものになります。
後水尾天皇といえば、有名なのが「紫衣事件」や「金杯事件」
後水尾天皇の父である後陽成天皇は、第一皇子の良仁親王ではなくの第二皇子の八条宮智仁親王を後継に望んでいました。後陽成天皇は豊臣秀吉と非常に仲が良かったのですが、桶狭間の戦いで政権が徳川に移ったことで状況が変わってしまいます。豊臣派である八条宮智仁親王を天皇にするわけにいかない徳川は、第三皇子である政仁親王(後水尾天皇)への譲位を求めたのです。後陽成上皇はこれを受けいれたものの、後水尾天皇との仲に深い亀裂が入ったと言われています。
「公家衆法度」や「勅許紫衣之法度」など徳川幕府における朝廷への圧力がさらに強まり、これを象徴するのが「紫衣事件 」(紫衣を勝手に勅許することは、勅許紫衣之法度『高僧や尼への紫衣の着用を許すときは幕府に告知しなければならない』に反するということで勅許を取り消した)や「金杯事件 」(無位無冠の身である福子(のちの春日局)が、内大臣・三条西実枝の義妹となり、朝廷に参内した)
こうして幕府への反感を募らせていた後水尾天皇は、幕府の同意を得ることなくまだ幼少の興子内親王に天皇の座を譲位してしまいます。第一皇子・高仁親王が亡くなったことで、後水尾天皇と徳川秀忠の娘・和子との間には皇女二人しかいませんでした。女性天皇は生涯独身と定められており、そうなればせっかく徳川の血を継いだ御子が生まれたところで、その徳川の血はのちに継がれなくなってしまいます。幕府としては徳川の血を引く後継の皇子が誕生するまではなんとしても譲位は避けたかったところ。
後水尾天皇の強行手段により皇統に徳川の血をという目論見が崩された幕府。譲位の取り消しを行うよう説得したものの、後水尾院は頑しして受け入れなかったといいます。
このようにして冷え込んだ朝廷との関係を再建しようと尽力したのが、次期将軍である徳川家光。家光公の廟所である輪王寺・大猷院には「夜叉門」という門があり、牡丹花が彫刻されているため「牡丹門」とも呼ばれています。また、↑の写真を撮影した可睡斎もそうですし、上野東照宮や徳川園なども牡丹の名所として有名。
後水尾院が褒め称えた美しき牡丹花が、徳川ゆかりの地で名所として今もなお大輪の花を咲かせているのは運命のいたずらか。感慨深いものがあります。