「三月の疾風」としなやかさ

春の風って、一見すると季節の移り変わりを告げるものだけど、三月の風は特に荒々しく、時には嵐のように吹き荒れます。人生の試練や社会の荒波、運命の激流 みたいなものを暗示しているようにも感じられます。「白き木の花」の描写は、コブシや白木蓮を思い浮かべます。コブシも白木蓮も葉がほとんどなく、純白の花だけが枝先に点々と浮かぶように見えるから、風に揺れる姿がいっそう際立ちます。特に白木蓮の大きな花びらが風を受けると、それこそまるでもがいているように見えることもあります。

 

「もみしだかれて狂うほかなし」という表現は、ただ揺さぶられるのではなく、もう「狂うしかない」ほどの力に翻弄される様子が描かれていて、まるで 理不尽な状況に追い詰められる人の姿 を重ねたくなります。「折れる」わけではなく、「しなる」──これは、強さと柔軟さの両方を持つ生き方であり、決して砕けずにしなやかに受け流す。風に逆らうことはできなくても、しなやかに耐え、元に戻る可能性を残している。それはどこか日本人の気質と重なっているようにも思えます。

 

日本の文化や歴史を振り返ると、真正面からぶつかって砕けるよりも、しなやかに受け流しながら持ちこたえる ことを美徳とする風潮があります。たとえば、武士道の「柔よく剛を制す」や、茶道や禅の精神にも通じる 静かな強さ。それに、地震や台風といった自然災害が多い国だからこそ、折れずに「しなって耐える」ことが、生き抜く知恵として根付いているのかもしれません。

勢いを増す「三月の疾風」

しかし、近頃の「三月の疾風」は、まるでこちらの「しなやかさ」を見透かしているかのように、ますます勢いを増している気がするのです。しなやかであることは、折れないための知恵であり、美徳でもあるはずなのに、それを「耐えることができるなら、もっと負荷をかけてもいい」と捉える勢力がいるようにも思えます。まるで、「しなること」が「受け入れること」と誤解され、どこまでも揺さぶられ続けているような感覚。

 

しなるのは「元に戻る」ための強さだけれど、それを続けていくうちに、しなりすぎて限界を超えてしまうこともあります。本来なら、しなやかさが生き抜くための武器になるはずなのに、今の風はそれすら奪おうとするほどの激しさ。「もみしだかれて狂うほかなし」── まさに今の時代の空気にも、そう言いたくなる瞬間が増えてきたような気がするのです。

 

これは日本だけの話じゃなくて、世界全体が「しなり続けることを強いられている」状態 になっていて、経済も、環境も、社会も、どこを見ても「限界ギリギリまでしなり続けてる」ような状況が続いています。本当はどこかでバランスを取らなきゃいけないのに、「まだいける、まだ耐えられる」って押され続けている。戦争や気候変動、経済格差、労働環境、どれをとっても、「これ以上しなったら折れるぞ」っていうラインを超えているのに、無理やりしなり続けさせられているのが現状です。

しなやかさの限界

世界規模じゃなくても、家庭や学校、職場の環境でもしなり続けているうちに、それを周りが「大丈夫だね」「まだいけるね」って都合よく解釈し始めると、ただもう負荷がかかる一方で、いつの間にか「狂うほかなし」の状態に追い込まれてしまいます。そんな風が吹き荒れる中で、「白き木の花」は、それでもしなり続けるべきなのでしょうか。

 

もしかしたら、本当に必要なのは 「しなり続けることをやめる」選択肢を持つこと なのかもしれません。しなるのも限界があるし、「折れないために無理をする」んじゃなくて、「折られる前に離れる」とか、「そもそもそんな風にさらされない場所を探す」とか、そういう考え方も必要なのかも。

 

でも、そう思いながらも、どこかで「しなやかでいたい」と思ってしまうんだよね……。それはきっと、しなやかさが「生き抜くための知恵」であることを、私たちがまだ信じていたいからなのかもしれません。それに、なぜ追い詰められる側が理不尽に環境を変えなければならないのかという悔しさもある。――それはそうだよね。もしそこが愛しいはずの場所なら。

 

ならば、『この風はおかしい』と抗ってみることで、風そのものの勢いが変わることだってあるかもしれません。たった一匹の蝶の羽ばたきによって巻き起こる「バタフライエフェクト」のように。

 

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