「わかれ」と一口にいっても、「別」「分」「岐」など、シチュエーションによってふさわしい漢字を使い分ける必要があります。例えば、「別れる」は人と人が離れることや、さよならをすることを指し、感情的なつながりが断たれることを意味します。一方で、「分かれる」は道が分岐することや、意見が異なることを示し、物理的な分離や抽象的な分岐を表します。また、「岐れる」は岐路に立つことや道が分岐することを意味し、選択の場面や分かれ道の状況を指す際に使われます。

 

掲出歌が用いたのは「訣」という漢字です。この「訣れる」は、思い切って別れを告げることを意味し、特に死別などの永久の別れや、感情のこもった深い別れを示す際に使われます。将来に必ず訪れる避けられない「訣れ」、つまり深い感情のこもった永久の「わかれ」があることを信じて疑わない一方で、日々の生活の中ではその現実を考えずに過ごしている人間の心情を巧みに捉えています。

 

不安や悩みなど何もなかった幼少期、ただ「いつかはみんな死ぬ」ということだけはわかっていて、そのことに対してだけほんのりとした恐れみたいなものを抱いていました。それはいつもではないし、そのことについて深く考えることはありませんでした。そのころから「疑わずされど日々に思わず」でずっと生きてきたけれど、年齢を重ねていくうちにだんだんと「訣れ」が現実味を帯びてきて、実感へと変わっていく頻度も増してきた気がします。それはまるで、遠い未来にうっすらと見えていた影が、だんだんと形を持ってこちらに迫ってくるような感覚です。それでも、覚悟はしていたつもりでも、そのときになって「疑わずされど日々に思わず」だったと思い知らされ、わかっているつもりでもその繰り返しなのかもしれません。だからこそ「疑わずされど日々に思わず」と「訣」という字の重みがずっしりと感じられます。