春が来るたびに思うことがあります。「今年は桜がいつ咲くのか」と。今年はいつになく花の開花が遅く、ソメイヨシノもそうなのかなと思ったのですが、ちらほらと開花宣言のニュースが飛び込んでくるようになりました。

 

桜は卒業や入学、別れと出会いなど、人生の節目を象徴する花でもあります。時には希望に満ちたものだったり、時には切ない未練が残るものだったり。だからこそ、私たちにとって桜は特別な意味を持つものとなります。

 

「桜なんか勝手に咲けよ」には、そのような複雑な感情がよく表れています。どこか投げやりで、無力感が漂います。季節の移ろいに心がついていかない、過去の未練や理想を手放せない気持ちが、このフレーズに込められているように感じられます。「怨念」というフレーズは、薄く残った未練や引っかかりで、季節や時間とともに心を切り替えられず引きずっているような感覚なのかもしれません。周囲は新たな門出や希望に満ちた春を迎えているのに、歌の主体は過去の夢や理想を手放せずにいる。だからこそ、桜に対して「勝手に咲けよ」と突き放しているのかもしれません。

 

岡井隆氏が医師であったことを踏まえると、桜は「門出」を象徴するけれど、それはあくまでも回復した人や新たな一歩を踏み出すに向けられるものであり、その陰で病床に留まる人や、回復が叶わない人もいるわけです。そうした現実を目の当たりにする立場だからこそ、「桜なんか勝手に咲けよ」 という投げやりな言葉には、生命の儚さや医師として抱える無力感が滲んでいるのかもしれません。「まだすこし怨念がある」という控えめな表現が、そうした静かな哀しみを感じさせます。

 

「今年は桜が見られるかな」「来年の桜が見られるだろうか」という言葉は、病と向き合う人やその家族にとって、しばしば口にする言葉です。病気が治ること、回復の兆しを見ることは決して当たり前ではないからこそ、その言葉には深い意味が込められています。

 

「勝手に咲けよ」という言葉は、桜の美しさや季節の訪れを素直に喜ぶことができない心の中の葛藤を反映しているともいえます。それは、桜が咲くことが当たり前でないことへの気づきの表れでもあります。