久々の読書日記です。

 

歌人である東直子さんと穂村弘氏の両者が、投稿された短歌について議論をする対談本です。恋愛だったり、食べ物や家族、動物など、テーマ別に語られています。

 

わかりやすくするためなのか、この短歌はこうなのに対してこの短歌はこう・・・と比較していることが多かったように思いました。例えばだけど、下記の短歌を引用したうえで穂村氏はこのように率直な意見を述べています。

 

体などくれてやるから君の持つ愛と名のつく全てをよこせ 岡崎裕美子
精神を残して全部あげたからわたしのことはさん付けで呼べ 野口あや子

 

野口さんのほうが後の世代の感覚だと思う、岡崎さんはまだ愛を欲しがっていて、「体などくれてやるから」って、口調は乱暴だけど、それでいて愛を求めているんだから、従来型の取引だよね。それに比べて野口さんは、もっと冷めている。もう愛と身体の取引なんて断念した歌で、僕はそっちのほうが面白いと思う。

 

抱かれてあげてもいいけどちゃんと愛してねと、欲求を満たしてあげたんだからせめて敬意を示して・・・この感覚の違いね。これって、相手に対しての好意の濃度が決定的に差がありますよね。「精神を残して」というのが、そもそも気がないというか冷めているんだろうなって。そりゃそうだよね。だって、体をくれてやる理由が、愛情じゃなくて手段なんだもん。

 

2人の意見に共感する所もあれば、この感覚は私とはちょっと違うなと思う部分もあるんですけど、こういう捉え方もあるんだなと勉強になりました。

 

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短歌には素敵バイアスというものがあると述べているんだけど、これも度が過ぎるとあまり良くないよねという話がでてきます。素敵バイアスというのは、端的にいえば写真を加工するみたいに“盛って”表現することを指すんですけど、確かにやりすぎれば気取ってみえたり嘘っぽくなったりしますね。

 

かといって、素敵バイアスを避けまくった自由すぎる表現というのもねぇ。奇をてらっているだけの独りよがりになってそれもまたどうかなと思うし。要はバランスですよね。醜い部分はなるべく見せたくないという心理は、時として凡庸な作品しか生み出せなくなってしまうのでそこは意識して気を付けたいところです。

 

というか、そんなことを意識してバリアを張って詠んでいるようではまだまだとてつもなく未熟なんだろうなぁ。さらけ出すというのは恐怖心がつきもの。仮に完全にバリアを外したとしても、そういう作品はたぶん表には出さない・・・というか出せないです、きっと。

 

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興味深かったのは、2人がそれぞれの作風を真似た短歌を詠んでみる真似っ子歌。

 

〈東直子風短歌〉ところてん水に紛れてきらきらとどこまで逃げていったのだろう  穂村弘
〈穂村弘風短歌〉新幹線開通式の前日の燃える薬用リップクリーム 東直子

 

「私はここに「きらきら」は入れないな」「ところてんの初句切れが、僕はやらないから」「穂村さんのは、漢字いっぱいのとひろがなばっかりのと、文語が意外に入ってる。私はリップクリーム的なものだと「薬用」とかつけないけど穂村さんは、こういうの入れますよね」みたいな貴重なやりとりもあって、面白い試みだなぁと思いました。