畑の一角に、零れ種から出てきた青紫蘇の芽がびっしり。大きくなってきたらすごいことになると思いつつ放置したままだったので、ギュウギュウになりながらそのまま育っています。あちこちにお裾分けしつつ、あの手この手で消費。
見てー!! 凄いでしょ⁈
赤紫蘇も生えてはいるのですが、梅干し用にもならないぐらい数としては圧倒的に少ないので、もう少し育ったら赤紫蘇ジュースでも作ろうかなと思います。あとは「ゆかり」みたいにふりかけにしてみたりとかね。青じそバージョンは「かおり」だっけ。
私は「ゆかり」以外まだ食べたことないのですが、周りでは「ゆかり派」より「かおり派」の方が多いんです。「あかり」も人気。
そういえばあまり気にしたことはなかったけど、なんで「ゆかり」なんだろう。・・・というわけで、「ゆかり」という名前の由来を調べてみると
紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る (詠み人知らず)
紫草が1輪咲いているという縁(ゆかり)だけで武蔵野のすべての草花を愛おしく感じる ※Wikipediaより抜粋
という短歌からきているというのを知りました。古今和歌集にあるこの和歌は、愛する人に縁のある人たちは誰もが愛おしく思えるという意味もあり、縁(ゆかり)の語源にもなった和歌。・・・なるほど。
たぶん私は、愛する人に縁のある人だからといって、無条件で好きになるほど人間はできてはいません。ただ、魅力的な人が魅力的だと思う人はやっぱり魅力的だと思うし、素敵な人は素敵な人に囲まれていることが多いなと思います。
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ところで、かの有名な源氏物語に出てくる
ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露分けわぶる草のゆかりを (光源氏)
まだ共寝はしていないのに可愛くてたまらない。武蔵野の露を分け入ってもなかなか逢えない紫草のようなあの方のゆかりの人だから
という和歌をご存じでしょうか。光源氏が慕っている藤壺の姪・紫の上のことを詠んだものです。もし「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」 が詠まれなければ、この和歌ももしかしたらお目見えしなかったかもしれませんね。
縁の不思議を感じつつ、今日も欲しいという方に青紫蘇をお裾分けしてきました。これからもよき縁で繋がっていけますように。