一休宗純といえば、形式や伝統にとらわれず、しばしば挑発的で自由な思索を重んじた僧侶として知られています。「南無釈迦じゃ」「娑婆じゃ地獄じゃ」と宗教や世間の概念を羅列しつつ、それらが人間の解釈や議論の枠組みを超えられず、むしろ迷いの根源であることを暗示しているのが印象的です。禅的な切れ味のある表現で、世俗や宗教の価値観を俯瞰し、どこか痛烈な皮肉を込めているように思います。
情報過多の時代における「どうじゃこうじゃ」
現代の私たちもまた、インターネットやSNSを通じて絶えず情報の洪水にさらされています。意図せず「どうじゃこうじゃ」と次々に飛び込んでくる膨大な情報を前にすると、何が本当に大切なのか、どこに真理があるのかを見失いがちです。ネット上で繰り広げられる無数の意見、論争、情報が、無意識のうちに消耗させられ、次第に真理に辿り着くための道筋を見失わせてしまうことがあります。過剰な情報の洪水に飲み込まれ、意識的に本質を掴み取ることがどんどん難しくなっている、そんな感覚が自分に中に常にあります。だからこそ、一休の言葉が投げかける問いはますます切実なものに思えます。
現代における「迷い」を超えるために
善悪の基準すら状況や文化によって変化し、絶対的な正解を見いだしにくい社会において、何を基準に考え、行動すればいいのか。一休は決して議論すること自体を否定しているわけではなく、議論に囚われて議論そのものが目的化してしまう愚かさを問題視しているように思います。本来の目的であるはずの真理や本質を見極めから逸れて、議論が迷路のように錯綜し、思考がその中で迷子になることこそが、彼が批判した「迷い」の正体なのではないかと感じます。
真理に向かうための「削り落とし」
情報や議論の海の中で自分を見失わないようにするために、余計なものを削ぎ落とすことで、私たちもまた迷いを超えて真理に近づくことができるのかもしれません。情報や価値観に囚われ、過剰に思考し、過去や未来に縛られることによって見失なってはそれこそが「愚かじゃ」と言えるのかもしれません。自らの感覚や直感を信じて、意識的にシンプルさを追求することも重要だと、一休は教えてくれています。
世の中は起きて箱して寝て食って後は死ぬるのを待つばかりなり 一休宗純